自己紹介

1)スピな世界に感づいた10代

2)刑務所での生活

3)ビジネスでの成功

4)サイキックとの出会い

5)グリーンカードの申請

6)マウイでの生活

7)離婚

8)マッサージセラピスト

9)ヒーリングとの出会い



スピな世界に感づいた10代

小学生の頃と言えば学校では昼休みとなると皆でサッカーと野球とかやって楽しんでいたのだが、、、ある日のこと、給食を終わって外に遊びに行くと思いきや、外で遊ぶ事に興味が全く無くなってしまいました。

そしてベランダに行って見慣れた景色の遠くを眺めて、、

”何故、自分は地球に生まれて来たんだろうか”

”あの山の向こうには楽しい世界があるのだろうか”

”きっと何かやらないといけない事があるはず”

”生きるのは何故こんなにも辛いのか”

と独り言を呟いていました。当時10歳ぐらいだったと思います。

変な小学生でした、、、。

小学校ではいつも女子と遊んでいました、何故なら男子と遊ぶより楽しかったからです。

刑務所での生活

基本的に学校が大嫌いで何か刑務所の中にいるような感覚でした。家に帰れば父と母は毎晩のように喧嘩をして、5歳上の兄貴は家に帰って来なくなり、一家離散のギリギリの家庭が高校卒業するまで続きました。

学校では腹を割って話せる友達は一人もおらず、家という刑務所から学校という刑務所の往復のみの人生でした。

学生時代に楽しかった記憶は全く無く他の人々と明かに違う次元に住んでいるような気がしてました。

ビジネスでの成功

20歳になると逃げるように上京し就職した会社も3か月で見切りをつけ、職を転々としました。

暫くするとワーキングホリデーという存在を知りオーストラリアへ!

たった一年の海外生活だったけど将来自分の住む場所は日本じゃ無い気がしてました。

日本に帰って来てからは再び職を転々とするもチャンスが来ました。

ツアーコンダクターという仕事にありつけたのです!

国内、海外と飛び回り、仕事はキツイけど最高に楽しい時間を過ごす事が出来たのです。

その後2回目の結婚、嫁さん連れて再び上京しました、この時すでに30歳を超えておりましたがビジネスをして成功してやる!という夢を持ってました。でも何をやりたいのか全く不明、、そんな見切り発車でした。

再び職を転々とし、、とある職場の従業員から ”パソコン一台あればビジネスは出来るよ” って聞いて目からうろこでした。

そこで物販に目を付けたのです。週末になるとフリーマーケットに出かけ仕入れをしてそれをオークションに出品して利益を得る!

そこの職場は勤務時間がちょっと長く10時から20時まで、準備やら片付けとかあるから実際は9時から21時拘束。

それから家に帰って晩御飯も食べず発送の準備、出品と、、、お風呂に入るのは毎晩

24時を過ぎていました。

数か月そんな生活をしていると売り上げが毎月数万円だったのに、気が付くとそれが40万円になっていました。

そして職場を去り、自分で会社を興して真剣にビジネスに取り組むようになったのです。

40万の売り上げもその後毎月10万円づつ増えて行き念願の100万円!!

この時にはホームページも自力で作り商品数は500アイテムはあったと思います。

そんなある日、人の紹介でアメリカから商品を売って欲しいと依頼がありました。

実はそのアメリカ人は趣味であるホームページを持っておりそのメンバーは世界中に点在してました。

それからの売り上げは驚異的!!年商1000万円に届くと次の年は2000万円、そしてその次の年は3000万円、、、

結局年商3000万円達成した時に皆さんご存知のリーマンショック、、、、。

自分には関係無いだろうと気楽に考えていたら数か月後には売上が1/3まで落ち込み精神的にかなり危ない状態でした。

節約の為に今まで車で仕入れに行っていたのを自転車にしてその日もてくてくと自転車を押しながら綺麗に晴れた青空を見上げていました。

すると突然、、、

”良いのか?本当に良いのか?” と空から声が聞こえてきました。

”本当に諦めるのか?”

この質問の意味は直ぐにわかりました、子供の時からずっとアメリカに行く事を夢みていたのです。

ハリウッド映画が大好きな母親の影響で日本の映画は一切見ずにアメリカ映画ばっかり見ていました。

朝起きて考える事は毎日アメリカの事、ジェット飛行機が頭の上を通過すると空を見上げて ”あの飛行機はアメリカに行くのかな、、” そんな事ばっかり考えてる子供でした。

そんな事を知ってか知らずが両親が ”アメリカ行ってみるか?” って言ってくれたのです。

即答で ”行く!!”

1979年当時13歳、生まれて初めてのアメリカ、オアフ島を経由してのカリフォルニアでした。夏休みを利用しての1か月のホームスティ、全国から沢山の人達が参加してました。

目の前に広がるハリウッド映画の世界!

風や空気や木や大地、、そして家やでっかい車や全てが違って見えました。

楽しいホームスティも終わり、再びオアフ島経由だったのですがフライトまでかなりのレイオーバーがあったので一旦ワイキキのホテルまで。

始めてハワイの地上に降り立った時の感動は凄かったです! ”なんだこの島? こんなとこに住めたらな~!!”

って今ハワイに住んでいるのがとても不思議です。


サイキックとの出会い

ある日、当時の妻が ”屋久島行ってみる?” って聞いてきたのです。仕事で屋久島は何度か行った事があったけど正直あまり好きな場所では無いです。雨が多い・蒸し暑い この2点は自分にとっては拷問です。

実は屋久島にサイキックの女性が居てその人に ”今後の事を聞いてみたら?” と前妻。

重い腰を上げチケット取って東京~鹿児島まで飛行機で鹿児島からはフェリーで。

フェリーは3~4時間位乗ってないといけないので高円寺の本屋さんに行きました。

新刊の場所だったと記憶してますが幾つかの本のタイトルに流し読みしました。

そして1冊の本を手に取りました、、、、、”なんだこの本、幸せになれる?? ホオポ、、、変なの”

元の場所に戻しスピリチュアルカウンセラーの江原さんの本を買いました。

屋久島に到着し早速サイキックの女性の方の家まで行きました。

もともと北海道出身の方ですがある日、耳元で ”屋久島へ行け!” と囁かれたそうです。

半信半疑のまま仕事を辞め屋久島へ。

屋久島の港から徒歩で行ける距離にある古いお寺に住み込みで地元の人達を見てあげたりしていたそうです。

いざサイキックの人を目の前にすると何を聞けば良いのか内容が全部すっとんでしまい、、、、たしか仕事の事を聞いたはず。でも何を言われたか全く記憶無し!!

そして最後にその方がある1冊の本を差し出してくれました。”これ読んでみてください”

”ホオポノポノ”

もう電流が頭の上から流れました! 本屋さんで自分が手に取った本が目の前にありました。

”マジすか?” 

結局、その本は数十回も読み返しました、何故なら意味が全然分からなかったのです。

そう、当時はスピリチュアルのスの字も理解出来て無い自分だったからです。

屋久島からフェリーで鹿児島に帰るなか、二人でずっと外の椅子に腰かけていました。

そして当時テレビで人気が出ていた ”篤姫” の音楽が繰り返し流れていました。

周辺には誰もおらず風の音、波の音だけ。

まるで違う次元に居たと思います、その事は前妻も感づいてました。

自分達が ”浄化” されていた事に気が付いたのは大分後になってからです。

東京に戻り、かなり大掛かりな不思議な現象が自分に起きている事にふと気がつきました、、、、


グリーンカードの申請

2010年の7月頃です、上から何か凄い強いエネルギーとイメージが降りて来始めたのです。

そのイメージはずばり ”ハワイ” だったのですが全く意味不明でした。

 ”どうすれば良いの?” みたいな、、。

何故かハワイに行かなければいけない!という思いに駆られたのです。


でも余裕が無いからDVDを買い漁ったのです!それから毎日のようにハワイ三昧!!!

結局そのイメージは3か月続きました、9月の終り頃に ”んっ10月ってグリーンカードの申し込みだよな”

って。20歳代の頃は数十回申請をしていました。

前妻に ”これが最後になると思う、当たっても当たらなくても良いよね。” と言いました。

法律事務所を通してグリーンカードの申請を済ませホッとしたその途端、上からのイメージがピタリと止まりました。


2011年の4月が発表でした、緊張しながらも法律事務所からの連絡を見たら ”ハズレ”。

”だよな、当たる訳無いよな、、、” と暫くすると法律事務所からメールがありました。

アメリカ国務省からの発表で ”グリーンカードの抽選をした際にトラブルが発生した” みたいなのがあり7月に再抽選があると!!

”なんか嘘みたいな話だな、、、” と再び屋久島へ行きました、そして聞いたのです。

もしかして海外に住む事になりますか?って、すると ”ズバリ無いです!” と言われたのです。

それでここ数か月の間の自分の身に起きた事を話してみたのです、すると ”ハワイ諸島の島の名前を幾つか言って貰って良いですか?” と聞かれました。

”オアフ、カウアイ、マウイ、モロカイ、、、、”

”マウイ島って言ってますね、取り敢えずマウイ島に行って裸足で台地を踏みしめてみて下さい”

と言われました。”え~!”って感じでした。

その年の6月に1週間だけマウイ島に行ってきました、当時は、グリーンカードの再抽選も当たるはずは無いだろうし、もう来る事は無いだろうから、そう思ってました。

プライベートでマウイ島に来たのは初めてでなんて自然豊かな島なんだろう~ってのが最初の感想でした。

マウイ島での1週間はほとんどビーチで過ごしました。その時の二人には風や波、木々の音などが必要だったと記憶してます。

このマウイ島への旅行の直前に山梨県までキャンプをしに行ったのですが、そこで朝方なんですがとても不思議な夢を見ました。

四角いフレームが出て来て、その中にブルーのメッシュ。再び四角いフレームが出て来て、今度は木々が風によって勢いよく揺れている風景を俯瞰から見てました。

一体何のメッセージなんだろうと気になってました。

マウイのカフルイ空港上空で飛行機が旋回している時、窓から外を見てました。

そのとき ”はっ!” としました、夢で見た木々が揺れてる景色はここマウイ島だったのです。

そして運命の7月、再抽選です。見事 ”当選!!”

直感でその後感じたのですが6月にマウイに行くというアクションを起こして無かったら恐らくですが今、マウイ島に居ないと思います。

実際はこれからが大変でした。必要な書類作成や注射や何やら、ソックス(猫)の注射も数回、東京のアメリカ大使館でのインタビューに向けて忙しい毎日でした。正直、お金も湯水のごとく出て行きましたが何故か無くなる事は無かったのです。

1年後の2012年7月にはマウイ島に住んでいました。

マウイでの生活

マウイ島移住の約半年前、父が他界し、海外での生活に憧れていた父は自分の事のように喜んで天国へ行ったと聞きました。

そのマウイでの生活も2012年からです。前もって契約していたアパートに引っ越すが皿や箸等が全然無く、食糧を買っても食べられない状況、、、だからとにかく毎日のように買い出しでした。

買い出しするにも何処にどんなスーパーがあるのか、、、全てが分からない事だらけでした。

仕事も一体何をすれば良いのか、、

こんなに物価が高いのに生活していけるのだろうか、、

ここは本当にパラダイスなのか?? 笑

WIFI契約、携帯電話契約、電気会社との契約、ツアーエージェントのライセンス申請、車のライセンス取得、車購入、タックスの申請方法などなどやる事は山のようにあり ”もっと英語をちゃんと勉強していれば良かった~!” の一言でした。

取り敢えず収入を確保しないといけないのでイーベイで仕入れてヤフオクでの転売をしてましたが何故か東京でやっていた時のように全く売れない、、、


過去に経験した事の無い苦しい状況で、当時のワイフとお互いにハグしながら恐ろしい程の不安と恐怖に勝手に涙が溢れ出し、間違っても ”大丈夫だよ” なんて無責任な言葉をかける事も出来ないでいた。

彼女の こんな生活もう嫌っ!! って言葉が胸に突き刺さった。

何か物凄い力が働いているとしか思えなかったのです。

だけどあと1年だけ頑張ってみよう、そう思いました、もしかしたら何か良い方向へ行くのかもしれないと、、。







離婚

結婚生活17年、恐らく東京にそのまま居残っていたら離婚はして居なかったと思います。

人がアクションを起こす事はとても大事だし次のステージにシフトする為にも環境とかを変えてみるのは重要です、ですがそれと引き換えに大事な物、人を失う事があります。

宇宙の手の平の上で生かされて自分達 ”人間” が幾ら抵抗してもそれは100%無駄であり、かえって状況を悪くします。

マウイに移住して半年程経過した頃、当時の妻の様子がおかしくなって来ました、それと同時に自分も精神を病んでいたと思います。

一番の原因は ”仕事” です。自分はパソコンを使って東京でやっていたビジネスを引き続きやっていたのですが、思うように売れず毎日のようにお金の心配ばかりしてました。

立ち上げたツアーエージェントも直ぐお客が来るはずも無く、、、でもたまに知り合いからトランスファーの仕事を分けて貰っていました。

一方、妻は言葉の問題が大きかったようです、そのうち家に引きこもるようになり一日中、ノートパソコンを見ていました。


その後、重い腰を上げクレッグリストで仕事探しをするも出来る仕事は限られます、更に世界有数のリゾート地というとサービス業位しか無いのです。

最初の仕事は個人のハンバーガー屋でした、2週間働いても研修期間だと言い結局1セントも貰えませんでした。


その次がレストランでの皿洗い。陶器で出来た重たい大量の皿を軽く洗ってからマシンに入れます。

皿洗いのバイトだけでは生活費が足りないのでコンドミニアムの部屋の掃除のバイト(ハウスキーピング)も始めました。


朝8時から4時位までがハウスキーピング、5時位から22時位まで皿洗い、その後、ツアー会社のお客を夜にホテルまで送るトランスファー、、。


帰って来るのは夜中、、そしてまた朝から仕事です。

体が何時まで持つのか、こんな生活をずっとしないと生きていけないのか、なんの為にマウイに来たのか、、、そんな自問自答の毎日でした。

そんな忙しい時期、妻が作ってくれたオニギリを食べると目頭が熱くなる瞬間が沢山ありました。





マッサージセラピスト


そんなある日、当時の妻の日本人の友人からマッサージスクールに行く事を勧められました。

軽い気持ちで入学したのは良いけど毎月6万円相当の学費を払わないといけませんでした。

ただでこそ我が家は毎月赤字で ”火の車” でした。

スクールに通いだした時は今までの仕事を辞め、新たにレストランでウェイターを始めました。

ウェイターなんて20歳位の時に新宿でやって以来でした、しかもタイレストラン!タイ料理に全く知識が無くそこから

勉強をしました!

そしてマッサージスクールです。

マッサージスクールのテキストを見て目が点になりました、なんと人間の体のパーツの名前が ”ラテン語、ギリシャ語” なんです!

ただでさえ英語でも大変なのに、、、、。

この頃には妻を日本に帰し独身生活です。生活は更に極貧、、、でもお金が必要になるとツアーの仕事が入ってくれてなんとか支払いが出来るような日々でした。

週6日間は仕事で休みは1日のみ、休みの日はサーフィンに行って食材を買いにスーパーへ行って夕方サンセットを見て家に帰る。週1の休みは誰とも話したくなかったし常に一人でいるのが心地よかったのです。

厳しい生活の中、毎日のように銀行の残高を見ていました、いよいよ来月はホームレスか、、、、って常に心の準備はしてました。

日本に帰る位なら死んだ方がいい、生き恥は絶対にさらさないと決めてました。


なんとか1年のスクールを卒業する事が出来ました!

卒業式の日、先生や生徒、生徒のファミリーとか集まってちょっとしたセレモニーをしました。

その中で生徒一人一人に校長がスピーチをお願いしてましたが自分に番になった時、もう涙が止まらず情けない失態をさらしてしまいました。


学校を卒業してから年に数回あるライセンスを取得する為にテストを受けなくてはなりません。

またこれがいわゆる ”ひっかけ問題” 、、、全く意味の無いテストなんですがこれをクリアしないとどうにもなりません、、、2回不合格、、、3回目でギリギリ合格!!


ライセンスが来るまで2か月かかりました、そして直ぐに就職活動!でクレッグリストで仕事を探すのですがプロとしての経験が無い人は仕事を得る事はほとんど不可能に近い現実に初めて気が付きました。


頑張ってスクールを卒業してライセンスを取ったにも関わらず、更なる大きな壁が目の前に立ちはだかりました。

”なんなんだ!” 

どれだけの数のレジュメ(履歴書)を送ったか覚えて無い位です、正直愕然としました。


地元のスパや、車で40分位ドライブが必要な場所とかまでインタビューに行ってとにかく仕事を探しまくりました。

最初に決まった仕事はワイルクという場所にあるクリニックでした。


保険が利用出来るので多くのロコの人達が利用しているクリニックです。

多くのクライアントは仕事で体を酷使している人達ばっかりで体がガタガタでした、というより体に対して全くのリスペクトが無い人達がとても多くてびっくりしました。


結局ここのクリニックは約1年ぐらいお世話になりましたがクリニックの場所のエネルギーが馴染めず、それと女性のオーナーだったのですが、彼女が持ってるサイキック能力をチラリチラリと見せ自分をその職場に引き留めようととても必死だったので逆に変な気分になり辞める事を決意しました。良い人なんだけどね、、、、


取り敢えず1年程のキャリアを身に付けたので本星の高級ホテルを狙っていこうと思いました!


Four Season、 Grand Wailea、 Andaz あたりを狙ってましたが基本的にキャリアは2~3年以上が条件でした。

でもダメ元でレジュメを送りました、そしてなんとグランドワイレアからインタビューをしたいのでホテルまで来てくださいという返信がありました。レジュメを送って2か月後でした、、、。


結局インタビューは4回ありなんとかクリアする事が出来ました。

運よくホテルでのスパで働くようになり、数か月するとやっと普通の人間の生活が出来るようになりました。

グランドワイレアのスパの同僚はとても良いエネルギーを持った人達の集まりでした。

一緒に居てとても居心地が良かったのを記憶してます。

本当に皆に出会えて有難うと伝えたいです。


ホテルのスパで働き出して1年程経過した時のある休みの日の話です。

遅めの朝のコーヒーをラナイで飲んでる時、ふと心に隙間がある事に気が付きました。

今までは生活の基盤を作る事に躍起になっていたけど生活がそれなりに安定して来た時期に突然、心の中に何故か不安、

不満足感、苛立ちを感じたのです。


理由は直ぐに理解出来ました、そして宇宙は既に次のステップの為の準備をして待っていました。

ヒーリングとの出会い

FBを見ていると何故かヒーリングのサイトをシェアしてるのが目に付き出したのは数か月前位からでした。

毎回同じ人がしつこい位にそのサイトをシェアしてくるわけです、正直なんだろう~と思ってました。

そしてそのサイトを見てみました、でもなんか ”胡散臭い” と思ったのは事実です。


そんな時期が数か月続きましたが何故だかそのサイトを隅々まで見てみようと思ったのです。


結局、そのヒーリングのサイトのワークショップに申し込んでしまったのです、実はワークショップに参加したのは人生で初めてでした。

ワークショップの日程は4日間、金額的にも決して安く無く、フライトやホテル代金などトータルで考えると出費はかなり痛かったです。


でもその会場に来ていた人達やワークショップの主催者はとても良いエネルギーを持っていて、何かサマースクールに参加してるような感覚でとても楽しい時間を過ごす事が出来ました。


4日間が終わり、皆とお別れするのがとても寂しく感じました。

このワークショップで一番の収穫は自分でもヒーリングが出来るという自信を持てた事でした、そしてレムリアのソウルメイト達と出逢えた事です。


ソウルメイトはレムリア時代の女神達と言えば理解しやすいでしょうか?笑

40から50人ぐらいの参加者でしたがソウルメイトと出逢える確率はそんなに多く無いです。


私の場合だと4人、、、2人は確実。もう2人はどうなんだろう?、、、って感じですが良き友人です、ちなみに全部女性です。。

何故そう思えるのかって、、エネルギーを感じるんですよね、自分とシンクロする何かを。

あくまでも私の判断基準です。

今でも良き友人であり、次元を超えて常に繋がっている感覚があります。



そしてこの後、また新たな展開が起こって行きます!!もうええって、、、涙!